No.0463
百戦錬ババァ
ババァと私は会社のある営業所(以下A)の近くに住んでいて車で通勤している。
現在の勤務地(B)はAから30kmほど離れている。
A−B間の物資のやりとりは今までハンドキャリーがメインだったのだが
私が辞めるとババァが毎日行くのはきついとかなんとかで郵送に切り替えることにした。
私が寄るからと言ってもババァが来て朝から鉢合わせたりこれはこれで
不快の元だったので善かったとも思うが
MT5(マジで倒産する5ヶ月前)位の零細企業にとって結構な痛手である。
朝Aに寄るからちょい遅めの出勤とか交渉すれば逆に楽になると思うんだが
(ラッシュ時間の通勤は田舎でも結構渋滞する)
とはいえ、急ぎの書類などは結局ハンドキャリーになる。
なんかババァが仕事ため込んでて、その書類の束をAに持って行くと言ってウロウロしていた。
A行きとかかれたレターケース(私の机の近く)にも
結構書類が貯まっていたので
「ババァさん、この書類もAに」
一緒に持って行ってくれ、と言いかけたところで
ババァ「えーいいのー!? これ重いよー? 大丈夫ー?! 助かるー!!」
と、どっさり書類を置いて行かれた
ババァ「ありがとごめんねほんともうしわけないー」
こいつは本当にくどいなぁ
こいつ、今分かっててオレに押しつけたなぁと半ば呆れつつ書類の順番を変える。
軽い(薄い)封筒の上に束置くから折れるだろっ(イライラ
私が残業しているのは元々オレがやってて残業が増えて
なんでelveだけ残業してるんだとか問題になったときに
「こんなにためちゃ駄目よー 私がやるわ〜」
とババァが持って行ったが、私よりもため込んでどうにもならなくなって
私に戻ってきた仕事である
ババァ「ごめんねー本当は手伝わなきゃいけないんだけどー」
オレ「お 疲 れ 様 で し た っ !」
帰るとか出かけるとか言うと30分以上ウロウロするのは何でなんだろうなぁ
あと、常に仕事たまってるのに朝1時間くらいは掃除してる
ビル清掃か何かの仕事に就けばいいのに、と思うが
ただ掃除が好きとかじゃなくてなんかがんばってる私アピールが凄い
というのが周囲の見解である。そしてがんばりどころ間違えてるよね、と。
何をするのにもウルサイ(動作、独り言)
早く7末にならないかなぁc⌒っ ´ρ`)っφ
是非フォローしてください
最新の情報をお伝えします
私は関係あまりないのだが営業所Cもある
ババァはCとその近くの企業Dとやりとりが多いのだが
「どなたかCにいきますぅ〜?」とか
「この書類をDに持って行かないといけないんですぅ。私が言っても良いんですけどぉ〜」
とかぐだぐだぐだぐだと誰かに押しつける気満点の発言をしてゲンナリされている
最終的に「私が行くしかないかー」とか始まって
30分ぐだぐだいい、ようやく出発するのだ。
おそらくそのぐだぐだの間に行った方がはやいw
客観的に観てババァの仕事ババァの能力に対して多過ぎなんだとは思う
だがババァと仕事してる人皆が協力的な気分にならない
しかし、怒っても無駄だと思うので眉間にしわを寄せている
凄い能力だとは思う
「オレも気を遣わないからおまえも気を遣うなよ」を極めるとこうなるのだろうか・・・
前記事のMさんはMさんで「私は行かない」が前提で話すので
(まぁ、家近いわけでも何でもないからな)
「どなたかA寄ります? じゃ、この書類○さんに渡してもらえます?
XXXXXで●●にはんこ押して△日までにこちらに返送するように伝えてください
あ、忘れちゃうと困るから付箋貼りますね」
すごいなぁ、と思う。
語尾上げで伸ばす、をアラシス(60前後ってなんてーの?)にやられると
本当に気持ち悪いと思うのだが、母や母の友人もそう言うの多い
松田聖子がアイドルだったおばさま達 とかおもうんだがちょい違うか
https://www.youtube.com/watch?v=8H0ok9IdfOQ
夜ボーイドウリョーがテレビで観た「駄目よ! 駄目駄目!」を労働現場でよく口にするのが何か患ってしまいそうと思いそうかこの管巻き具合か。とも思ったがちがくて。
https://www.youtube.com/watch?v=CvAIVBTyqbs
大島優子がテレビでそれ(だめよぉ〜 だめ だめ )をやっていて感動したという彼の語調は確かにこれに近いのだがこれもちがくて。
まあ、彼のオリジン(「駄目よ! 駄目駄目」)になってしまうわな。
まあなんだ、そのババア(百洗練バァ)俺にくれ。
百洗練バァに俺も混じらせたのだろうから、回収する。それを。
こうもりが混じってるのはヤムチャじゃね。
主人のディスクールにおける主人は「物言わぬ主人」である。
主人は命令を言語化しない。
奴隷は言語化されてない命令に従う。
そして主人と奴隷は共犯的に「全体性の幻想」を共有する。
そのババアの精神世界においては。
「業務」というのは「言語化された命令」だから、それに従っても主人のディスクールにならないし「全体性の幻想」は得られない。
「朝一番の掃除」は「言語化されてない命令」だから、それに従うことが主人のディスクールとなり、「全体性の幻想」となる。
とかなってたりすんのかもな。
よくしんねーけど。
さてここで、なぜ「命令は言語化されてはならない」のか、という疑問がわく。
その答えこそが「真理は、朗開する秘匿として成起する。」である。
つまり、主人が「これをしろ」「あれをしろ」と命令するとき、主人の「真理」、いわば「ほんとにしてほしいこと」は「これ」や「あれ」ではない何かなのである。
だからこそ奴隷は「これ」や「あれ」ではない別の命令を実行する。
そうすることではじめて主人と奴隷は主人のディスクールが成立し共犯的に「全体性の幻想」を得られるのだ。
というわけで百戦錬ババはなかなかのやり手である。
>「ババァさん、この書類もAに」
>一緒に持って行ってくれ、と言いかけたところで
>ババァ「えーいいのー!? これ重いよー? 大丈夫ー?! 助かるー!!」
については、elveさんこないだこのババアと決定的にケンカしたとか聞いたが、これは逆にババアからすれば「あなたを主人とみなしてないわよ」「あなたとは主人のディスクールしないわ」という会話だったりするのかもな、というのはわたしの妄想である。
>そしてがんばりどころ間違えてるよね、と。
このババアの目的が、脳内で主人のディスクールをして「全体性の幻想」を得ることであれば、彼女の行動はまったく「間違ってない」、ということなわけだ。
ちなみにこの「全体性の幻想」とはいわゆる「メンバーとの一体感」とかでもあるため、企業において従業員たちにそれがあることはよいことになろう。「士気」とかって奴な。
しかしマジで倒産する5ヶ月前みたいな企業なら「士気」も下がっていよう。みんなうすうす幻想から覚めていたりしよう。
だからそのババアが浮いている、という状況だったりするんじゃなかろうか。
これが逆に飛ぶ鳥を落とす勢いの成長中企業であれば、そのババアの「がんばりどころ」は従業員の士気保持にプラスになったりするだろう。
elveさんはなんかそういう「一体感」が好きとかって話してなかったっけか。
サッカーのスタジアムで応援するのとか。
百戦錬ババァと一体に…。
前拾ったうさぎの名前が『だいふく』に決まったから記念書き込み!
家族が勝手に付けてた。外猫ならすっげーいっぱい名前付いてたりするのかもだけども兎は一所だから固定化されちゃうね、うさぎさんで良かったのにだいふくさんになった。
名前付けられるフィルター掛かるし、死んだ時苦しいからちょっと困る( ̄  ̄;
こんなばばあ嫌だorz
人懐こいんだよ多分そのばばあ。これがまじもんのロリばばあなんだろうか。
ばばあになってもギャルはぎゃる、妹は妹。甘やかされた一人っ子なんかはそのままの精神状態で成長するんじゃないか?
そんな感じでずっと生き延びて来た結果、ずっとそんなってだけじゃないか? 子供の頃とお代わり無いような気がするそのばばあ…。
>だいふく
普通に食ってしまいそうだw
幸せってものは、人によって違うし、その人の中でも時と場合で変わるものだったりする。
ある場合では幸せだったものが、別の場合では不幸、不愉快なものになったりする。
だけど人は幸せについて定義(言語的に固定化させるというほどの意味)したがる。
そうやって定義された「幸せ」には、「幸せじゃないもの」も含まれる。
今日「幸せ」について定義しても、明日にはそれは不愉快なものになっているかもしれない。
噂の心理士さんいわく、「カウンセリングの最終的な目的は患者さんに無心になってもらうことかもしれない」、あくまで冗談の文脈で。
「お前ラカン派の素質あるぞwww」と答えといた。
誤解のないように一応言っておくと、そいつとはわりといつもの調子のケンカ腰で口論みたいに話してる。
マスターは神様と駆け落ちでもしたか。
去勢の承認をさせるのはどうか、とわたしは言っているが、去勢の否認している人の精神構造を変化させるのは、すなわち去勢を承認させることしかありえないんだな。
他に変化の選択肢がない。
だからつまらんのだよなー。
kさんへ。
ヨマの新記事は、「不在の父」というイマジネールな次元から、乱雑に象徴的父を思考しているもので、いろんなところで歪みがあるが、まあ「可」ではあると思うんだな、素人にしては。精神分析理論と照らしあわせて。
で、彼を象徴的去勢の承認させるならば、もちっと「イマジネールな父」についての考察をさせないと、彼は象徴的父を理解できんだろう、と思われる。
とはいえその考察が「母とのオナニー」に拘束されたものであればまた想像的去勢の否認になってしまうだろうけどな。
その「拘束された思考」とは違う見方で(発想を転換して)思考することがポイントとなるわけだが。
これが彼が一番苦手とするところだからなあ。
いろんな物の見方がある、という考え方が足りない(これは噂の心理士さんも指摘してたな)。
彼の言う「一元論」ってのはそういうことだろう。要するにそれは発想がワンパターンで貧しいということなのだが。
「ヨマはその抑圧を受けていない」じゃなくて、「ヨマは抑圧を否認している」んだよな。
ヨマの言う「一元論」とは、「俺のエロス一元論」「俺のイメージ一元論」なんだよな。
もう無理、ギブ。
だいふくかーいい名前だ
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yoma 2014/06/25 20:10
>>すみません。私のやり方はそれなりの意味を持っていると思います。
>この結果が?
そうです。私にとってはこれで十分意味はあるのです。
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これが全てだろう
まともに相手してたら疲れるだけ
勢いで消すところだったwww
まあ名前伏字にしようかと思ってやめたけど、しといたほうが良かったんだろう(笑
y○maですね、わかります
あのブログってyomaにしてみれば「ペレット」を与えてくれる人をおびき寄せる為のものなんだろうな、と思うわ
特に今現在転移している「Aさん」を
私との分析もその為の釣り餌。でなきゃ彼が自分をモルモットに駆り立てる動機が不明だしな
モルモットの文章があった。これを読むともう少し違う解釈が出来そうだが
http://d.hatena.ne.jp/yoma-x/20140303/
>もう少ししたら川田先生が、おはようと声をかけながら実験室に入ってくるだろう。
>先生はまず部屋の電灯のスイッチを入れ、黒い革のトートバッグを重そうにテーブルの真ん中に置くだろう。そうしたら真っ先に私のところに来てくれるはずだ。スリッパを鳴らしながらやってくる。スチール缶の蓋を開けるときのカタンという金属音。ペレットをザラザラとすくう音。もう私はこの音を聞くだけで興奮してしまう。私はケージの中で居ても立ってもいられずに、右に左にと細かくステップをする。うれしくてたまらないのだ。
> ケージの上蓋が開いて、白いプラスチックでできた餌箱の中にカラカラっと音を立てて落ちるペレット。その瞬間には私は首を餌箱に突っ込んでいる、口をはふはふしている。ペレットが口の中に入ろうが入るまいがそんなこと構わない。噛む衝動が抑えられない。
よくまあこんな気持ち悪く自己を表現できるものだな、と思うが、「yoma」とは切り離して母の胎内に還さなければならない「腫瘍」であるなら納得は行く
ただこの記事では「ペレット」を与えるのは「モルモットA(Aさん)」ではなく「川田先生」だった
しかし「川田先生」は出て行ってしまう。モルモット同士を観察することなく
>それでやっかいなのは、ここでは観察者もモルモットのお仕事だということなんです。
>川田先生は、だめ。全然モルモットのことを解っていない。
「川田先生」は彼の「父」のようにモルモット同士には無関心であった。介入の姿勢も見せていない
それどころかモルモットyは明確に「モルモットのことを解っていない」とdisっている
こうして「モルモットy」と「モルモットA」の鏡像的な物語が展開されていく
><私が私であるためには、他者の観察によって得られた自己が自分なのであるとする>つまりそれを私と呼ばなければ、どこにも私は存在しなくなってしまうではないかと思うのだ。
観察者であるはずの「川田先生」は居なくなってしまったので、ここでの「他者」は「モルモットA(「観察者A」)」になる
> よって「私」というものは、モルモットyがとった行為である、真似(反映)という作業が自己成立に必要になるのではないでしょうか。自己の成立とはここで言う、観察者Aに従わなかったという行為なのです。それは決して、幼児的に無意味な抵抗や反抗をしているのではなく、自己に照らし合わせた異質性を認めているということになるのではありませんか。
モルモットAの意見に従わないこと「でしか」彼は自己と信じているものを確立できない
彼に象徴的な場所を与えてくれるはずの第三者「川田先生」(というのもモルモットの実験は論文なりに記述され、モルモットyにその場を与えることになろう)は不在であり、母子関係の中で「イタコ」として食われ、自身は不安定な「カオナシ」に陥る
こうして見ると彼のブログは、何とかして「自己」を確立しようとする為の祈りの場みたいなものなのかな、とも思える
しかし「川田先生(父)」の位置を陣取っているのは「<私>」でありそれは結局yomaでしかないのでいつものように「イタコ」になって終わる
父は彼に餌は与えるがそれ以上のものは与えなかったのだろう
まあエディコンは万国共通だしな。
日本人は象徴的去勢の承認の定着が少し遅くなる=去勢の否認としての倒錯が多いだけで。
チョムスキーの言う普遍文法とかぶっちゃけエディコンじゃねって思うわたしがいる。
「自己」っつうよりそのまんま「意味」の確立じゃねえの。
ボロメオの輪では、非現実界で、想像界と象徴界の重なり部分が「意味・意義(sens)」となっている。
トラウマなりタナトスなりという心理の深淵にあるおぞましい現実界を避け、母(想像界)と父(象徴界)両方に守られている場所が、「意味・意義(sens)」なわけだな。
そこで「意味」の根源を探ると、象徴的ファルスに行き当たる。
これは精神分析の過程でもある。
ヨマは倒錯で象徴界の重なりがうまく言ってないから「意味」が確立できてなかったのだろう。
普通の神経症の精神分析よりスタート地点がだいぶ後ろになっているわけだな。
逆に言えばそれがゴール地点の近くでもあったりするけどな。
意味の根源を探ることは鏡像段階に退行することで、水上雅敏曰く「少し精神病や倒錯に近い状態」になる。
ヨマはなんにもせずとも最初からその状態だったと。
精神分析ってさ、去勢を承認させるのが目的ではなく、分析主体が、去勢を承認したり否認したりすることで、自分の象徴的ファルスを再発見していくことなんじゃないかなあ。
でもまあ今は「川田先生」に噛み付くエディコンぐらいにはなってんじゃねえの。
ここ参考になるよ。
http://www.solea.main.jp/?eid=960397
発達心理学、自我心理学系だろうと思うが。
夫婦の関係が悪いと母子カプセルを壊すことができず、いつまでたっても父性が登場しません。父性の登場がうまくいかなかったり、自分は2番手なんだという自覚が生まれにくかったりした場合、母も子も二人で母子カプセルの中に居続けます。この状態が依存症や思春期の問題、摂食障害にも影響します。これらアディクション(嗜癖)の問題は幼児期に源流があるわけですが、エディプス期のつまづき(父性の問題)も大きく影響するのです。
何をやってもうまくいかないという人も、この時期の問題を引きずっています。私はきっと成功する、私はすごいことができるという信念を持って生きている人がいます。これは誇大妄想的で躁的な生き方ですが、成功するという信念を持ち続けるには失敗する現実に直面してはいけないわけです。そのため現実的な行動を避けるようになります。例えば自分が天才的スポーツ選手でいるためにはスポーツをしないでいるわけです。スポーツをしてしまうと化けの皮がはがれます。こうゆうように評論家として生きているわけです。このような生き方では、何をやってもうまくいきません。エディプス期が宙ぶらりんになっている、この時期の成長が完了していないわけです。
AC(アダルトチルドレン)の問題は、父性が登場してこないことも大きく影響しています。家族の中で父親が子どもの役割を演じていたら、父性の登場のしようがないのです。父親が子どもの役割を演じるとは、妻が母親の代役になっている状態のことです。この状態の家族は、父性が登場しないばかりか、母子カプセルに風穴を開けることができないので、カプセルは余計に強化されます。子どもは体力もついてきて冒険したくてウズウズしているのに、いっこうに母子カプセルが割れない。それによって子どもは社会へ冒険を求めることができず、父親を巻き込んだ家族カプセル(あるACのクライエントさんはこれを「沸騰した圧力鍋の中にいる状態」と形容されていました。これはものの見事にその状態を捉えた表現だと感心しました。)の中でなんらかの役割を演じるようになります。4歳の子どもと母親との擬似夫婦関係が生まれるのです。
ヨマこのタイプなんじゃないかなあ、と思ったりする。
父親が一番手だとすることで、子供にとって母親は去勢された存在となり、父親が去勢する人となる。
がヨマの場合、自分で「去勢する母」とか言ってたから、「族の中で父親が子どもの役割を演じていたら」ってケースなんじゃねえのかなあ、と。
kさんへ。
なかなかおもしろいこと書いてるぞ。
http://d.hatena.ne.jp/yoma-z/20140626/p2#c
まあかねくんとか実際の父親どうのこうのっていうのはイマジネールな父だから想像的去勢の承認止まりだけどな。
象徴的去勢とは、象徴的父の欲望を自分が欲望することである。
象徴的去勢の承認とは、象徴的父の欲望を自分が欲望していることを認めることである。
象徴的父に愛されたいと自分が思っていることを認めることである。
象徴的ファルスとは、象徴的父が欲望する何かである。
象徴的父に向かう第一ステップとして、「イマジネールな父」=「不在の父」がファルスを持っていて、それによって自分が去勢される(「自分は2番手なんだという自覚」)ことが必要なんだよな。
ところが、母の権力が強く、父親がその権力下におさまっているような家庭事情(と子供自身が思っている)(たとえばその一つとして「家族の中で父親が子どもの役割を演じるケース」)、つまり、「去勢する母親」と「去勢された父親」だと、子供は象徴的去勢を否認してしまう、と。
去勢を否認してしまう、か。
で、わたしがブログでいつもやってたのは、象徴的去勢を承認した人に、「大文字の他者や象徴的父も幻想だよ」として、その欲望関係を解体することであった。
今回の臨床素材はいつものわたしの臨床からすればイレギュラーなものだったんだな。
否認メインの倒錯者は。
つかわたしSM雑誌でバイトしてたことあるけど、まあそういう人は倒錯を仕事にしてるからかもしれんけど、普通に象徴的去勢の承認できている人たちばっかだった気がすんだよなー。
哲学オタクみたいな人もいたし。
フーコーとかも死後家からすんげーハードSMプレイおもちゃが発見されたりした。
まあ象徴的去勢の否認と承認を繰り返して、象徴的ファルスを再発見しようとしてたんだろうな。
しかしそれは再発見したとしても、キリスト教で言う原罪のようなもの(もちろん象徴的な)なので、まあいろいろあれこれしてたんだろ。
象徴的ファルスとは現実界に通じる穴を強固に蓋するものであるからな。
それが神経症という症状である。
「俺にはトラウマなんてない」とするときの安定的な拠り所が、象徴的父と象徴的ファルスなんだよな。
新記事はラカン派のわたしがさっぱり意味わからんが、まあ彼にとってはそうなのだろう。
実際の父親つまりイマジネールな父が「去勢をする人」であっても、象徴的次元では「象徴的父」が「去勢をする人」となり、父親つまりイマジネールな父親も「去勢された人」となる。
象徴的去勢とは、「去勢をする人」をイマジネールな次元から象徴的次元に引き上げることでもある。
まとめてみよう。
今回の臨床素材Yにとって、母親が「去勢する人」であり、ファルスを持つ者であった。
そこへ、わたしが提出した「単純な論理パズル」によって、彼曰く「象徴的母」(ファリックマザーだとわたしは解釈している)が、実は実際の父親「イマジネールな父」だったということに気付かされた。
この時点で、彼の世界において、ファルスは実際の父親「イマジネールな父」に移行した。
彼は想像的去勢を承認できるようになった。
次に、「虚無」という単語を足がかりにして、彼の欲望は象徴的父に向かい始めた。
結果、彼はこうもりのブログで「虚無に浸らせてくれ」と言った。
これは、たった一度の、軽度のものではあるが、象徴的去勢の承認と言えよう。
わたしは向こうでこう書いた。
>まあこういうのはほっとけば大人になって象徴的去勢も承認するものである。
>想像的去勢の承認はできてるんだから。
その通りの事態になってきてるわけだな。
わたしは上で、「Yの言う一元論とは母とのオナニー一元論だ」と書いたが、神経症者(つまり正常人)も、「去勢一元論」なんだよな、その思考パターンは。
去勢の否認も承認も去勢の一元論である。
未去勢という別次元の思考パターンが、彼らにはない。
これがわたしの言う「自閉症者の思考は、定型発達者の脳内にないものだ」ということだ。
重要なポイントは、「虚無」が象徴的父であり、「虚無に欲望されたいという欲望を持つ自分」というのが象徴的ファルスなわけだが、ここで簡単に象徴的父つまり虚無と同一化しちゃいけないんだよな。
同一化することは、欲望の行き先が自分に向かうことになる。
これは鏡像段階への退行となる。
「母との鏡像関係から脱出する」ために、「父に救い出された」すなわち「想像的去勢を承認し、象徴的去勢を承認した」あげく、ふりだしに戻る落とし穴がある。
自分は虚無に認められたい、だから俺は虚無になる、と、鏡像関係に戻ってしまう。
yokato41なんかがよい例だ。彼のネカマという症状はファリックマザー幻想としてなされているとわたしは思う。
虚無に欲望されることを欲望していることを認めながら、虚無と同一化しないこと。
象徴的去勢とはそういうものではないだろうか。
↑は男限定な。
女は象徴的父との同一化=虚無との同一化という落とし穴に落ちても、イマジネールな世界にイマジネールな父が保存されている。
ファザコン娘は倒錯しても否認を吐き通せない。
逆に言えばこれは、女は象徴的父との同一化という落とし穴に落ちても、浅いところまでしか潜れない、ということでもあるが。
この、「虚無との同一化」が、ラカンが当初「分析家の欲望」だとしていたが、のちにそれが倒錯者の症状であることに気付き、「分析家の欲望」を「差異への欲望」に訂正した理由である、「無を志向する欲望」であろう。
虚無との同一化はある意味倒錯者の最終地点なのである。
恋人を殺害した例の人も、当時は鬱状態だったそうだ(自分でそう書いてる)。
鬱病歴三年目(だっけか)のわたしとしては彼の言葉は非常に興味深い。
今でも寝ている旦那を見て「今濡れタオルかけるだけでいいんだよな」と素の頭で思う。
逆に言えば。
女は、象徴的父を、「イメージに格下げ」(向井の言葉)して「イマジネールな父」にすることが、現実原則的に問題にならないので、しやすい。
大野さんが「私は父の娘だ」と自称すること。この「父」は彼女にとっておそらく象徴的であったり想像的であったりしよう。
象徴的去勢と想像的去勢の違いが、女性にとっては、社会生活上(現実原則かつ快感原則的に)、大きな問題とならない。
男はそれが問題となる。自身がペニスを持つ存在だからである。ファルスがイマジネールな父にあるのか象徴的父にあるのかは、彼の精神世界において問題となる。
kさんなどもそういうところあんだよな。象徴的父の話をしてると思ったら、実際の父の話にしたり。象徴的父と想像的父がごっちゃというと言い方悪いが、軽やかに「父」の意味が変わる。
わたしもそういうところあると思う。
というか「父」に限らずすべての事象において想像的か象徴的かって議論はすんげーどうでもいいのだよな、わたしは。
話それた。
女にとっては、象徴的父かイマジネールな父かはけっこうどうでもいい。「父(の機制)」の意味をどっちにもできる。向井の言葉を借りればイメージに格下げしたり象徴に格上げしたりできる。
だからこそ、彼女らは象徴的父である虚無と同一化せず、去勢を承認し続けることができるわけだ。
虚無との同一化という落とし穴に落ちずに済む。
ファザコン娘は鏡像段階に退行しにくい。
大野さんがすんごくわかりやすいな、この話の具体例として。
男はいつかその父になるのだ、なる可能性があるのだ
女はその父に選ばれるのだ、選ばれる可能性があるのだ
的な話か
祈りに関係なくチンコ生えてる→祈りは現チンコを無視した行為
→ソレは否認か拒絶かあーだーこーだ
祈りに関係なくチンコ生えてない→祈りは祈りとして機能する
>的な話か
原父神話じゃな。
>祈りに関係なくチンコ生えてない→祈りは祈りとして機能する
ペニス羨望はいつも片思い。
> 原父神話
父が子供喰ったり子供が父殺し
他人が他人である以上いつも片思いだよね
妄想の他人ならきっといつか両思いになれるよ。
他人(既に脳内)に片思いも
妄想の他人(脳内)と両思いも
思い自体がただの妄想であることを強化し
抱える空虚を成長させるだけだろう
生きることの虚しさは生まれたときから決定づけられている
どんなことしようと考えようと最後は死ぬからな
消毒(脳内)と激しくまぐわいたい
・・・明日ピル(実家に届いてる)取りに行こう
> 「族の中
家族のことだろうがちょっとワロタ
自家中毒中毒
>思い自体がただの妄想であることを強化し
>抱える空虚を成長させるだけだろう
強化や成長しなくても最初からそうなんだし。
ネトゲで言えばバフっすよ。
例の人はわたしと話すからファリックマザーを転移して退行すんだろうなあ。
kさんなんかうまく転移されずに済んでる気がするがなんでだろ。
話すのやめた方が彼のためか。
じゃー空虚感だな
>kさんなんかうまく転移されずに済んでる気がするがなんでだろ。
丁寧語と疑問形がポイントだと思う
なんとたく
iPhoneで書くの難しい(~_~;)
いや、ドラゴンボールでいうとプーアルだよ百戦錬バァは。
そしてactivecute
「可哀想と憎たらしい」を「羨望と倦怠」に債務回収すること。
破廉恥ハレーション
「生ぬるい欲望を埋めるより懐かしい歌にも似た甘い言葉耳に溶かして僕のすべてを汚して欲しい悲しいことは此じゃなくても忘れたくない鮮やかで短い幻それは幻」(←スカトロかな?)
スピッツめんどくせ。
臭くても泣けんし。
南斗の拓