2026年3月5日

44 は “だってさ” について考えました

  1. 以前から思ってたんだが占いって心理カウンセリングと同じだよな。
    テレビで占い師を同じことやってるタレント心理学者もいるわけだし。

  2. 「気の持ちよう」だから「痛いの痛いの飛んでいけ」が大事なんすよ!!

  3. 自分が誘導しているのか、相手が誘導しているのか。
    その相手ってのは結局自分の脳内他者なのだから、いくらでも誘導できる。
    つまり、「相手の言明していない言わんとしていること」なんて考えない方が「相手の言わんとしていること」を聞ける、ってわけだ。
    その「相手の言わんとしていること」とは「お前の聞きたいこと」なんだから。

    相手の言葉を「痛いの痛いのとんでけ」と思うかどうかも「気の持ちよう」だ、ということ。

  4. この文章だってお前に向けて言ってるわけじゃないのに、「ああ、私のことだ!」と思う「気の持ちよう」があるわけだろ。

  5. >つまり、「相手の言明していない言わんとしていること」なんて考えない方が「相手の言わんとしていること」を聞ける、ってわけだ。
    >その「相手の言わんとしていること」とは「お前の聞きたいこと」なんだから。

    わかりやすく言えば、「脂さんは何がしたいの?」=「私は「痛いの痛いのとんでけ」と言われたい」だった、ってことだ。

  6. とはいえ、「八割の人間」にも、わたしのような部分がみんなちょっとはあるんだよな。
    大野さんもその「ちょっとの部分」が「男は代用品しか愛さない」という批判を言わせたのだろう。
    まあすぐ「あれはどうのこうの」って隠蔽したがるが。その「ちょっとの部分」を。

    放射能なんて程度の差でみんな浴びているもんだ。自然にも放射能は存在する。

  7. その「ちょっとの部分」が「問題」になるのだろうな。
    お前自身も、相手にとっても。

  8. >ちょっとの部分

    なのでわたしは「グラデ」でもあるなとは思っている。

  9. わたしとかこういう文章「「あなた」って誰?」って聞いちゃいそうだ。

  10. ああうん、結局「差別化」は必要なんだよな。
    「牡牛座以外の人」がいるからこの文章の「あなた」は「私だ」と思える。
    かけっこのビリを見たがるのと同じか。

    パラノイアってのは「差別化」と「同一化」という相反する心理機制が過剰になった症状なんだよね。
    http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-21.html

  11. 占いも心理カウンセリングもパラノイア養成塾なんだよな。
    あ、間違いじゃないんだよ、新宮一成だって「では精神分析はパラノイアを育てるのか」という自問自答を著書で繰り広げている。
    ラカンの答えは「人格とはパラノイアである」らしいが。

  12. まぁ、すべてを妄想だとしてしまえば
    どういう妄想をしやすいのかってのが人格になるか

  13. 機械設計やってればわかるが、ある部品のある性能がいいことは、逆に問題となりうるんだよな。
    フィードバックに精度がよすぎるセンサーを日常で使う製品に使っても誤差を検知してしまう。
    「利点か問題か」なんて「気の持ちよう」、「見方による」んだよ。

  14. >どういう妄想をしやすいのかってのが人格になるか

    そうだな、リビドーの備給だな。
    「自分自身が想像する自分なるもの」に備給された状態が「想像的なものでしかない自我」だ、と。

  15. まあ、「すべて妄想」で生きられないのがelveさんだと観察の結果考えているから、なんていうかな。
    出口のない迷路に放り込まれて迷路の外にある食べ物に辿り着こうと必死なマウスみたいだ。
    いくらビリを見てもお前がゴールテープをきれるわけではない。

  16. わたしも出口のない迷路にいるわけだが、迷路の外に食べ物があるとは思ってない、って感じか。
    ただのパニック発作です。

  17. 外に食べ物(おこた)がある迷路か、ない迷路か。
    「逆側に歩いていってであった地球の裏側」は迷路だった、と。

  18. むしろelveさんみたいな「差異化と同一化の葛藤を自覚しつつそれに悩む」のはアダルトチルドレンに多いわけだが(葛藤だがそういう葛藤だと気づかない、言っても強烈に否認するのがパラノイアかなあ)、スタート地点が違う気がするんだよな。わたしと。「逆側に歩いていって地球の裏側でであった」のはそうかもしれないが。
    わたしのスタート地点は単細胞生物だが、アダルトチルドレンたちはスタートの時点で人間なんだよな。

  19. elveさんの「痛いの痛いのとんでけー」も、「私の故郷はそうだった」に聞こえる。
    「痛いの痛いのとんでけーでとんでったもん!」と言っているように。
    そんな故郷を知らない奴は「はあ?」となるだろ。

  20. >「私の故郷はそうだった」に聞こえる。

    ああ、だから「ビリ」の方を見ちゃうのか。
    スタートラインにすら立ってないのがわたしだ。

  21. ここまでが「己の欲望を眼前させる」「精神分析治療」なのだろうなあ。
    「逆精神分析」とはそっから先を提唱しているわけだがなかなかできんわ。

  22. 「痛いの痛いのとんでけ」で「黙れ」と言われている「痛いと思う自分も自分だ」って部分が鍵なんだろうがな。
    ここからは体力いるわ。

  23. >葛藤だがそういう葛藤だと気づかない、言っても強烈に否認するのがパラノイアかなあ

    パラノイアとか、「差異化と同一化の葛藤だ」ということを具体的に指摘しても、たとえば「差異化」の部分に着目し「いや俺は「同一化」だ」と言う。
    「そうじゃなくて同一化もあるから」と言うと今度は「同一化」に着目して「俺は「差異化」だ」と言う。
    そうやって葛藤は悪化する。
    パラノイアは精神分析、心理療法の歴史から言ってもアキレス腱だからのう。

  24. スタートやゴールを認識してなくて「ビリでも走ることが尊い」みたいのを真に受けて育って、結果求められてるじゃん! ビリだったら意味ないんじゃん!! あれ? でも誰にとってのなんの結果でどんな意味??? ってなってる感じw

  25. >あれ? でも誰にとってのなんの結果でどんな意味??? 

    それが「分析主体」である。
    http://d.hatena.ne.jp/lacanian/20100514#p1
    =====
     しかし,おそらくそのような状況としての出立が問題なのではなく,その状況が招く「自分自身の言葉で語ることの突然の要請」が問題なのである.こう言って良ければ,それは「語りの出立」ということになろう.自分自身の言葉で,誰の助けも借りずに発言すること.このような状況では,人は父の機能に対する問いに直面させられることになる.精神病者の発病契機となる事態は,「自分自身の言葉で語ることが不成功に陥る」こととして一括できる.例えば,会社の朝礼で他の社員の前に立たされ演説をさせられたある女性は,その翌日から被害的内容を持つ幻聴と実体的意識性の出現をみた.そして,当時を回想して「(朝礼のときは)うまく喋ることができなかった」と語る.このように,前精神病者は,自分自身の言葉で発言しようとした瞬間,語りが「うまくいかない」という事態に陥る.ここにおいて,宮本のいう「言語危機」*2をラカンの理論と対応させることができよう.

     分析がときに精神病の発病を招くという事実は,自由連想の規則がまさに自分自身の言葉で話すことを求めることによる.
    =====

  26. >分析がときに精神病の発病を招くという事実は,自由連想の規則がまさに自分自身の言葉で話すことを求めることによる.

    これはイコールそのあとの
    =====
    つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」*3と呼んでいる.
    =====
    の「(精神病者が受け取る)享楽の意志」だろうな。

  27. >「ビリでも走ることが尊い」みたいのを真に受けて育って

    そらわたしみたいなのがいると「かけっこなんて無意味」になるからなあ。
    この場合の「かけっこ」は(「三人の囚人」で喩えられる欲望関係の総体としての)社会性の種でもあるから、そういう教育になってるんだろうな。

  28. >そらわたしみたいなのがいると「かけっこなんて無意味」になるからなあ。

    わたしはむしろ真面目に「ヒトという動物のかけっこなる習性」について研究してるつもりなんだがな。

  29. 「ビリでも走ることが尊い」んだから「ビリでも走ってる私を尊いと言って」って話なのか。
    「かけっこ」なんて別の授業している奴にしてみればどうでもいいだろ。

  30. >スタートやゴールを認識してなくて「ビリでも走ることが尊い」みたいのを真に受けて育って、

    スタートとゴールを認識してなかったら「どの方向に走るか」決まらないだろ。
    みんなが走ってる方向に走ってるだけ、と言うなら、その起点がスタートでありその終点がゴールだ。

    ほんとあれだな、集団活動できないくせに集団活動したがるんだよな、ADHDって。

  31. elveさんは「大人になりたがり病」ってわけではないが(ビリでもかけっこ自体をやめないのはそういうことだと言えるかもしれないが、「ゴールを目指せ」というのはないわな、確かに。ビリの方ばっか見てるから)、結局「大人に対する転移」が染みついているかどうかなんだよな。
    「ビリでも走ることが尊い」と言っているのは子供の頃のお前にとっての大人だろ。

  32. 別に「父と母」だろうが「家族」だろうが「社会」だろうが「他者」だろうがなんでもいいが、「大人」なんだよ。
    人は誰しも子供だったろ。そいつが子供のときの「大人なる他者」が刷り込まれている。

  33. わたしは「大人」を「辞書以外の意味も含む大人」として考えられてなかったんだろうな。
    「相手をナイフで刺すようなもんだ」って言われたことあるしな、上司から。

  34. 辞書的な意味での、あるいは生物学的な「成熟した個体」とかって意味での「大人」ではなく、「大人という明記されていない妄想」。

  35. それが精神分析的な意味での「父」なわけですよ。拡大解釈になろうが。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA